これまで行ってきた活動は、一見するとバラバラであったり、独立しているように見えます。
しかし、サイファが描き、創り出すものはいつも、決してぶれることはありません。
まるで歌舞伎役者のように七変化を繰り返していても、基点は一つであり、また塗り替えているのではなく成長しています。
様々な経験をしてきたから、できることがある。限界を決めず、境界をつくらず。”個人”と”会社”を尊重する。三屋裕子の「三屋イズム」。
これがサイファの核。サイファらしさです。
サイファは、社会に還元できる活動を目指しています。
サイファには数字の「0」という意味があります。
アスリートから教員に転身し、その後教員から次の道に踏み出す時にサイファは生まれました。
新しい道に進むときは、これまでの経歴が生きるとは限らず、常にゼロ。
「ゼロからのスタートなら、恐れるものはない!」
ゼロからだからこそ、失うことを恐れず、挑戦していくことができました。
サイファには、三屋裕子らしいスタートの思いが込められています。
バレーボール全日本代表のスター選手として活躍し、惜しまれながら引退した三屋裕子への、ニーズは絶大なものがありました。
それは「"スポーツ選手なのに"話せる」であるとか、「"スポーツ選手だったけど"・・・」というような評価。常に10年先を考え、行動していた三屋からすると、「世の中はスポーツを軽視しすぎる!」と手放しで喜べるようなものではありませんでした。
たくさんのお仕事をいただく順風満帆な中、自身だけが動くのではなく、多くの人が動き関わる活動をしなければと、スポーツプロデュースを開始しました。
アスリートを指導者として起用する「FNS春高バレーコーチングキャラバン」、ウェブでのスポーツ指導「スポーツヴィレッジ」、非運動群を対象とした「健康寺子屋」。
競技の面がクローズアップされがちなスポーツを、若い世代、運動が苦手な人たちへと広げていく、当時は少なかったプロデュース業が、始められていました。
三屋の経歴の代表的な一つである、シャルレの取締役への就任。
それは、サイファに新しい活動が生まれ、みんなが活発に動き始めたころでした。
当然、三屋はサイファを離れることになり、「・・・最後に、私のために最も強い思いでサポートしてくれているサイファをよろしくお願い致します」と、格好良くメンバーを泣かせ、サイファを去っていきました。
三屋が最も信頼する先輩を新しい社長に迎え、新生サイファを継承。
広報誌の企画作成など、新たな事業にも取り組みました。
そして年を経て、大切なボスが深い傷を負って東京に戻った日、新幹線のホームにみんなで迎えに行きました。
また、一緒に仕事を。心の中で、改めて強く決意したときでした。
今、三屋は胸を張って言います。「すべて良い経験をさせてもらいました。」と。
2007年7月1日から、再びサイファは三屋裕子と躍動を始めました。
ずっと思い描いていた「運動嫌い」「運動が苦手」な人のための運動への誘いとして、健康寺子屋の全国行脚。積極的に渡り歩き、活動を広げてきました。
その活動は2011年3月に勃発した東日本大震災においても、健康支援活動として継続されています。
2014年からは、これからの日本を支えていく次世代に呼びかけ、「PLN」をスタート。
失敗も苦い経験もあります。その一つ一つをスイッチを入れかえて一歩一歩にしてきました。
人と人とのつながりが、人を育て、自分で動こうとする人の幸せにつながる。
私たちのこれまでの経験を、さらにポジティブに生かし、世の中のための活動を続けていきます。